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初夏の隅田川

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「初夏の隅田川」 油彩画・キャンバス P10号 制作年:1959年
山上嘉吉(やまかみ・かきち)1901−1991年 
(U氏所蔵)


<U氏コメント>
この作品の橋は、手前から駒形橋、厩橋、蔵前橋、総武線鉄橋の四つでその先、約150メートルほど下流に架かる両国橋は死角となって描かれておりません。
写生場所は浅草松屋屋上でしょう、ほぼ真横の吾妻橋は当然視界に入りません。
この隅田川とその対岸風景は、現在五十歳より上の年齢の方々で幼少、青春時代を本所両国界隈で過ごされた方々にとっては懐かしくいろいろな思いがわき立つ光景かと想像いたします。
画面正面左上のアーチ型屋根をもつ建物は、周辺で唯一焼け残った旧両国国技館(終戦直後からしばらくの間、メモリアル・ホールと呼ばれ米軍が使用、昭和30年ころ返還され我々一般市民がローラー・スケート場として利用できた期間もありました。その後、日大講堂となり、その後、解体され、現在は商業ビルへと変遷しております。現両国国技館は、少し離れた両国駅に近い以前ヤッチャバと呼ばれた青物市場跡に江戸東京博物館に隣接する格好で建設されております。)で、その他、緑の丸屋根の安田公会堂と安田庭園の緑、震災記念堂(地元では戦中軍服を縫製していた故、子供たちは被服廠と呼んでおりました。)、同愛病院、両国駅、小生が通った中学校も小さく描かれているようです。
当時の隅田川は工場排水・生活排水も混じり悪臭が酷かったものですが、この頃より急速に改善対策が施され、オリンピック昭和39年にかなり改善され、その後しばらくして魚影が再び見えるようになったと聞いております。
背景の街は、メリヤス工場・縫製繊維と今云うアパレルそして金属材料とその加工工場・印刷工場等の中小企業の街でしたが、時間経過とともに豊かになる実感があった時代です。作者山上嘉吉は、焼け野原となり多くの人が犠牲になった東京下町が鮮やかに復興し逞しく息づく姿に感動したのではと考えます。




<山上嘉吉 略歴>

京都市生れ、電話局修理工として夜間働き昼間に関西美術院で絵画を学ぶ。
1923年上京し築地小劇場の舞台装置助手となる。
矢部友衛、岡本唐貴、浅野孟府らと知り合い村山知義らが興した三科造型美術協会第1回展に出品、1925年同2回展出品、1926年三科を離れた矢部らの造型に参加、1928年造型とプロ芸派が合体したプロレタリア美術家同盟第1回展出品、1929年第2回展は内橋洪三名で出品、この間、松屋のショーウィンドーのデザイン担当、1934年同盟は強制解散、1944年長野県上田に疎開、1946年矢部、岡本らと現実会結成、1955年岡本、石垣栄太郎、別府貫一郎らと点々会を結成、現実会解散後は個展を主に作品発表、千葉県柏に住み1991年没、享年90歳




by art-tomnog2014 | 2015-07-31 21:33
平凡なサラリーマンが30数年かけて蒐集した絵画を紹介しています。

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