2014年 02月 08日
國領經郎
「О夫人像」 油彩画・キャンバス F8号
制作年:1948年
國領經郎(こくりょう・つねろう)1919−1999年
横浜市生れ、1941年東京美術学校図画師範科卒業、1942年新潟県立柏崎中教諭、
招集をうけ近衛師団入隊、のち中国中央部に渡る、1946年復員、1947年柏崎中に戻る、
第3回日展入選、1948年初個展・柏崎市役所 「女醫さん」「O夫人像」など30点、
以後光風会展・日展多数入選、1972年横浜国立大学教授、1976年日展会員、
1991年日本芸術院賞、日本芸術院会員、1992年日展常務理事、1994年勲三等瑞宝章
國領經郎の軌跡は大きく3段階に分けられる。
●初期(1937−1953):西洋的感性との闘い、初期印象派的・後期印象派的な模索、立体派的手法の試み。
●点描(1954−1971):点描画への動機は画業の行き詰まり、原因は器用さ、器用さの矯正として時間のかかる点描を試みた。
●砂丘(1972−1998):砂丘の風景を30数年にわたって描き続けた中で痩せゆく砂丘に悲観を禁じえなくなった、
これを当時の学園紛争で見た若者らの孤独・孤立感と重ね合わせたことから砂上の漠然とした空間に無言で佇立する若者の群像で表現した、その後テーマは「砂丘と添景人物」「砂丘と鳥」「砂丘と量感のある群像」「砂丘と水溜り」といった具合に展開した。
「O夫人像」は数ある図録に作品名の掲載はあるものの、作品写真はどれも掲載されていない。
おそらく当初よりモデル自身が所蔵し、非公開だったためではないだろうか。
時は流れ、モデルの遺族が所蔵していたものを手放し、偶然にも私が市場で発見した。
ブルー色を強調し西洋的感性へ果敢に挑んだ所期の希少作品、資料的価値の高いものと思う。
作品を顕彰するうちに後掲のモデルを同じくするデッサン画を発見、
その作品に添付されていた書簡からモデルO婦人の実在がわかった。
(國領が新潟県柏崎市在住の1940年代後半、O夫人は、國領から絵画の指導を受けていたようだ。
作品のO夫人の右手には絵筆がある。)
(所蔵参考資料)
第2回宮本三郎展記念賞・國領經郎展図録(1983年)
國領經郎展図録(1999年)
「婦人像」 デッサン画 F5号 書簡付 制作年:不詳
1997年朝日新聞社主催デッサン展 出品作
添付の手紙には
「婦人像」デッサン、奥様がモデルです。
記念にお送り致しますので、お納めいただければ幸いです。
と國領の自筆で書かれている。
デッサン展は平成9年秋に銀座松屋で開催された。盛会裡に終了したとの礼状も添えられている。
モデルはA大学のO名誉教授の夫人、1940年代から家族ぐるみの親交があった。
先の油彩画「O夫人像」のモデルを裏付ける希少なデッサン画である。