2015年 04月 01日
古沢岩美
佐賀県生れ、1928年岡田三郎助に師事、本郷研究所、1939年福沢一郎らと美術文化協会結成、1943年応召・中支へ、1946年復員、美術文化展、モダンアート展、日本国際美術展等で活躍、1964年作品が猥褻との疑いで書類送検、1975年古沢岩美美術館開館
古沢の画といえば裸婦、エロス、醜悪などと紹介され一般的に誤解されているが正しくは権力、政治、特権、虚飾、欲望などに対する批判を古沢の独特の感性表現で世に訴えたのである。あの三島由紀夫が優れた芸術家として古沢を絶賛している。
通好みには高い評価をされたが古沢が文化勲章のような国の権威的な表彰を受けることはなかった。そんな古沢の気骨ある画家人生に脱帽である。
「母子三代」銅版画 28/30
10×7.5cm 制作年:1972年
「戦中の中国のある街の風景である。修羅と飢餓の中で血がまじり、
時代が善悪を越えて移ってゆく姿を表現してみたかった。」
(古沢岩美美術館カタログ・作品解説頁から)
「自画像」銅版画 117/1000
35×25.5cm 制作年:1973年
「画家にとって自画像程むずかしいものはない。
時間が立って見るとその時の自分の心理まで描かれているからである。
すべての芸術は自分自身との闘いであるからである。
自選画集の口絵のために作った。」
(古沢岩美美術館カタログ・作品解説頁から)
「私はヴァイオリン」 リトグラフ 246/300
50×40cm 制作年:1974年
「枯葉の中の破れヴァイオリン、もだえる女・・・・・・」
(古沢岩美美術館カタログ・作品解説頁から)
古沢岩美美術館月報161冊(1975年8月~1991年4月)
美術館が開館したのは1975年(昭和50年)である。
熱心な支援者だった当時の東洋信販・社長の大谷昭雄が山梨県の富士を望めるリゾート地に建設したものだ。
記念して作られた美術館カタログには油彩74点、水彩5点、デッサン18点、版画34点、陶磁器16点の147点が掲載されている。美術館は画家の集大成ともいえる殿堂だった。
しかし1981年(昭和56年)に東洋信販が会社更生法を申請し破産。
その後、1989年には事実上の閉館となってしまった。
古沢ファンとしては痛恨の極みであるが大量の作品がどう散失してしまったのか気になるところである。
これら月報がいつまで発行されたか不明だが貴重な資料であることはいうまでもない。
奇跡的に古書店で161冊を発見し身震いをした。
号毎に画家の紹介や他の美術批評記事が満載され充実している。
これだけの資料に再び出合うことはない。
これらの資料から1975年に遡って画家の辿った道程をあらためて知りたいと思う。
希少な資料は時として作品以上の価値を持つことがある。
「猫」 油彩・キャンバス M8号
制作年:1972年
こちらの心を見抜いているような猫の目つきに「はっ」とするが愛らしさもあって気にいった作品である。
(上目使いでありながら八方睨みのような怖さも潜んでいてなかなかの技巧的作品ではないか。)
「花と動物」 詩/堀口大學、挿絵/古沢岩美 発行:1972年
37篇の詩と挿絵 限定28/145部 プレス・ビブリオマーヌ刊行
口絵のシートは古沢の銅版画「老いたかまきり」、
本書はいわゆる製本されたものではなく1枚毎のシート。
局紙といわれる高級和紙で仕上げており額装して楽しむこともできる。
タイトルは花と動物だが内容は人間界のもので大人の詩集と挿絵である。
37篇のシートを1W毎に額装して飾ったら約9カ月間も楽しめる。
堀口大學(1892−1981)詩人
古沢岩美(1912−2000)画家
どちらも明治生れの巨匠である。
「裸婦」 油彩画・キャンバス F10号 制作年:1962年
軍事郵便・三好企画(1996年)
古沢岩美美術館カタログ(1975年)
古沢岩美代表作展・日動画廊(1971年)
美の放浪・文化出版局(1979年)
古沢岩美展・板橋区立美術館(1982年)
古沢岩美作品展・カギムラ画廊(1981年)
夢倉・三好企画(1992年)
別冊一枚の繪・古沢岩美エロスと修羅飢餓 (1993年)
古沢岩美全版画 (1997年)